京の今昔

咲き誇る紅梅のもとで繰り広げられる優雅な踊り
はねず踊り保存会 会長 平野 永二 氏

はねず踊り保存会 会長 平野 永二 氏
はねず踊り保存会
会長 平野 永二 氏

「はねず」という言葉が唯一残る小野

「はねず」とは薄紅色を指す古語で、また中国渡来の花、庭梅を表す言葉でもあり、貴族にも愛された高貴な色です。しかし、いつしかその言葉は廃れていき、今ではその意味を知る人はほとんどいません。現在この言葉が残っているのは、おそらく当地だけだと思われます。

はねず踊りは元禄年間、隨心院に咲く梅の周りで、男女4人の子どもに小野小町の百夜通い伝説の歌に合わせ踊らせたのが起源と伝えられ、明治時代まで盛んに踊られていました。大正時代に一旦途絶えますが、昭和48年(1973)に、はねず踊りを復活させようと住民が一丸となり、京都国立博物館の絵師の協力で衣装にはねず色を再現、歌は新たに創作し、宗教舞踏家の方に踊りを振り付けて頂き、はねず踊りを復活させました。復活後も紆余曲折あり空白の時期がありましたが、踊りを後世に伝承するため平成15年(2003)はねず踊り保存会を発足し、はねず踊りを再びよみがえらせました。以後、はねず踊りは、多くの人々からご好評頂き、平成17年(2005)の「愛・地球博」においては、日本の春を代表する舞として踊りを披露しました。また、平成21年(2009)11月には静岡県で開催されました「第24回 国民文化祭」にも京都代表として出演しました。



文化を継承するのは地域の力

歌に「九つ十のわらわ集めて」との歌詞があることから、踊り手は地元小学校の4~6年生の女子を対象に、春に募集して9月頃から練習を始めます。難しい踊りのうえ、礼儀作法も含めて教えるので厳しい指導になります。しかしその分、子どもたちは本番で見事な踊りを披露してくれますし、終わった後には、また次もやりたいという声もあがります。大人たちも地域が一丸となり、当日は竹筒入りのはねずういろうなどを販売。それを資金に、古く色褪せていた衣装を新調するなど、備品をひとつずつ整えています。

現代はパフォーマンス的な要素の強い踊りが多いのですが、はねず踊りは寺の踊りなので仏様に対する畏敬の念を表した所作も出てくる静かで可憐な踊りで、京都ならではの古風な雅が感じられます。御覧になる方にはその優雅さを味わって頂き、「はねず」という言葉をお土産にして頂きたいと思います。

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豊かな水が育んだ伏見の酒文化
キンシ正宗
取締役製造物流部長 田中 明 氏
製造物流部製造物流課 杜氏 辰己公亮 氏

キンシ正宗 取締役製造物流部長 田中 明 氏
キンシ正宗 取締役製造物流部長
田中 明 氏

良質な水と港運の発達で酒どころとなった伏見

当社は天明元年(1781)京都二条で創業、明治13年(1880)伏見に進出しました。当時、京都市内には100軒ほどの酒屋がありましたが、明治になって東京の人口増加とともに酒の需要も増えると、東京への物流の拠点であった伏見へ市内の造り酒屋もこぞって移動します。京都から東京へと船で輸送するとき、その適度なゆれによって木樽の香りが酒に移ることで、一層深い味わいとなった伏見の酒は、東京でも評判になりました。

京都は水が豊富な土地で、特に伏見にはミネラルが豊富な良質の水が流れています。かつては京都最大の淡水池であった巨椋池もあり、質の良い水が至るところで自然に湧き出ていました。その名残は今も残り、少し地面を掘るだけで良い水が大量に湧いてきます。また、伏見は気温が低いため、酒の発酵に適した硬度の低い水が適しています。その水から作られる伏見の酒は、口当たりが非常にやわらかく「女酒」と呼ばれています。これは、素材の味を生かす薄い味つけの料理によく合うので、京料理のお供には欠かせないお酒です。



美酒は水へのこだわりから生まれる

伏見には良質な水が湧く七つ井と呼ばれる井戸があり、当社は、そのなかのひとつ、常磐井から汲み上げた地下水を酒造りに使用しています。この水には酒造好適米の王様と呼ばれる兵庫県産の山田錦や京都の酒米「祝」を用い造っています。

杜氏が一人前になるまで10年はかかります。多くのことを学びますが、そうした苦労に酒も応えてくれます。酒造りは子育てと一緒で、とても難しい仕事ですが、その分、無事にでき上がったとき、おいしい酒ができたときの感動はひとしおです。現在は日本酒だけでなく、地ビールも扱っていますがその経験が酒造りにも役立っており、まだまだ学ぶことがあると感じますね。

2月は寒作りのお酒が出回るため、日本酒が水々しく、一番おいしく味わえる時期。特に大吟醸は、口に含むとほのかな甘味と芳醇な香りが広がります。

常温で飲んだときに余韻が残る酒はお燗に、余韻がサッと消える酒は冷やで飲むと良いでしょう。お燗は電子レンジではなく湯煎でじっくり待つ飲み方を楽しんでほしいですね。

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京の美術文化を牽引してきた歴史ある美術館
京都市美術館 館長 村井康彦 氏

京都市美術館 館長 村井康彦 氏
京都市美術館
館長 村井康彦 氏

美術ファンを魅了する多彩な展覧会

京都市美術館は昭和天皇即位の大典、大礼奉祝会の事業のひとつとして昭和8年に開館し、まもなく80年を迎えます。その間に関わった画家の寄贈を中心に、収蔵している日本近現代の作品を、コレクション展として公開しており、テーマを設定し、流れに沿って絵の意味や作者の意図を理解しやすいよう構成しております。平成22年1月17日までは「儚きもの」と題して明治から昭和を代表する日本画家、村上華岳や池田遥邨等、1月23日からは「花から花へ」と題し、近代日本画の先駆者である竹内栖鳳、京都出身の洋画家、須田国太郎等の作品を展示します。また、京展と称する公募展や美術団体の展覧会等、当館の稼働率は高く、年末年始の日展は京の風物詩にもなっています。海外展も積極的に行なっており、平成21年に行なったルーヴル美術館展は62万人弱の入場者がありました。

当館は鉄筋コンクリートの近代建築に和風屋根を載せた、帝冠様式と呼ばれる建築様式で、内部には貴重な大理石と漆喰がふんだんに使われています。また、天井が高く設計されているため、自然光がたっぷり入り、彫刻などの美術作品の展示・観賞に適していると美術家に愛好されています。



岡崎は京都のハブ文化ゾーン

岡崎は江戸時代から歌人、小沢蘆庵や文人、頼山陽といった文人墨客が住み、文化的な雰囲気が濃い地域でした。明治時代に京都の近代化が推し進められると、博覧会が度々開催され、琵琶湖から繋がる琵琶湖疏水も開通します。岡崎には近代日本庭園の先駆者とされる小川治兵衞作庭の庭があちこちにありますが、これらは疏水の水を利用しており、疏水開通と密接な関係があります。庭園巡りは岡崎散策のテーマのひとつです。春にはライトアップも行われ、疏水べりの桜が美しく浮かび上がるなど、楽しい場所ですね。

岡崎は平安神宮や知恩院、円山公園を南北に結ぶ道の中間にあって図書館や美術館等が並ぶ、いわば京都のハブ文化ゾーンといえる場所です。当館向かいには関西の作家たちの作品も多い京都国立近代美術館もあり、江戸時代から続く文化的な地域性が現在でも受け継がれています。京都に関心を持つ関東の人は江戸時代から多く、数々の見聞録が残っています。京都を訪れる関東の人は大変勉強して来られるので、京都人は逆に教えられることも多いですね。

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技と加工の街・京都で店を守り育てる
京とうふ藤野 代表取締役 藤野 清治 氏

京とうふ藤野 代表取締役 藤野 清治 氏
京とうふ藤野
代表取締役 藤野 清治 氏

屈指の賑わいを見せた北野界隈

 日本最古の花街である上七軒は、室町時代に、火事で消失した北野天満宮を再建する際、その廃材を利用し、7軒の茶店を建てたのが始まりで、上七軒の団子の紋はその折に供したみたらしだんごに由来します。また、天正15年(1587)に開かれた北野の大茶会では、上七軒が豊臣秀吉の休憩所とされ、その際に献上した団子を秀吉はとても誉めたといわれています。また、その折に使われた井戸「太閤井」は現在も残っています。

 現在は10軒のお茶屋に芸舞妓が25名。過去は西陣の大店(おおたな)のご主人が出入りする場所でしたが、最近はフレンチや中華、お好み焼きなど、さまざまなジャンルの店があり、また、リーズナブルな店も増えたことで敷居の高さは薄れ、身近な場所になっています。

私が子どもの頃は北野界隈の絶頂期。路面電車の京都市電北野線が走り、毎月25日に北野天満宮に市が立つとそれはもう大変な賑わいで、毎月その日を心待ちにし、ワクワクしたものです。商店街も人々が賑わい、活気に溢れていました。



水に恵まれた京都から豆腐スイーツを発信

当社は昭和39年(1964)に父が一条通で創業、長男の私が後を継ぎました。京都は山に囲まれていますが、水脈に恵まれているため、豆腐を作るための環境が自然に整えられた、非常に恵まれた土地だといえます。また、京都は仕入れた原材料に付加価値をつけて提供する、技と加工の街です。当社でも豆腐を食べる機会の少ない若い人たちが商品を買う動機付けになることは積極的に取り入れており、木綿豆腐などを湯やっこにしてオリーブオイルと岩塩で食べるといった食べ方を提供したり、豆腐を使ったスイーツも販売して好評を得ています。

京都は見どころがたくさんありますが、単に見た買った食べたではなく、京都に来た証を持ち帰ってもらいたい。そのためには京都に住む知人や、お店の人と仲良くなり、地元ならではの情報を得ることをお薦めします。そうすることで、混雑した観光地を避けてゆっくりと京都観光を楽しむことができますし、地元のネットワークを活用して奥行きのある京都を知ることができますよ。

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雅な京の文化を有す京都観光の出入り口
京都国立博物館 館長 佐々木 丞平 氏

京都国立博物館 館長 佐々木 丞平 氏
京都国立博物館
館長 佐々木 丞平 氏

文化財保護の機運が高まるなかで誕生

 当館は明治30年(1897)に帝国京都博物館として開館しました。この地は過去、方広寺の境内の一部で、明治維新後は御所にあった仏像や位牌を保存した恭明宮があった場所です。また、当博物館が建つ東山一帯は、古くは墓地、埋葬の地である鳥辺野だったことで知られていますが、平安末期には貴族の邸宅が並び、室町時代に寺院が建つようになります。その後、豊臣秀吉が亡き息子のために現在の智積院の地に祥雲禅寺を建て、また、国家を鎮護する大仏を造るなどして一帯を整備しました。

 明治の廃仏毀釈で仏教関係の文化財が壊され、海外流出するなかで、岡倉天心、フェノロサ、九鬼隆一らが文化財保護を訴えました。ヨーロッパの知識が豊富な彼らは博物館の整備を強く主張したのです。片山東熊が設計した特別展示館は、フレンチバロック様式でシンメトリックながら華麗な装飾性に富み、石の白と赤レンガの対比の鮮やかさが印象的です。正面入口の破風には男女の芸術神、伎芸天(きげんてん)と毘首羯磨(びしゅかつま)の像が彫刻されています。また現在、建替え工事中の平常展示館は谷口吉生氏による現代的な建物で、平成25年開館予定です。



芸術の秋にテーマ性のある旅を

 今秋は11月23日まで「日蓮と法華の名宝」展を開催します。近世の京都を復興した町衆と法華宗は非常に関係が深く、長谷川等伯や俵屋宗達、狩野派の絵師ら芸術家も信徒でした。彼らの作品とそしてその背景となる宗教や文化を紹介するこの展覧会には、中国や朝鮮から請来された寺宝など、初公開のものも多く、国宝「立正安国論」もお目見えします。巡回展がないため、これは京都でしか見ることができません。

 京都を訪れたら何かテーマを決めて効率よくまわるのが良いと思います。秋の展覧会と関連付けるなら、周辺の智積院や養源院にも等伯や宗達の絵がありますし、西陣の妙蓮寺や本法寺も京都で活躍した芸術家との関係が深い寺です。まず博物館に足を運んでいただくと京都の概要がわかるので、その知識を持って観光をしていただく、また観光後に博物館に立ち寄って理解を深めていただく、当館はそうした京都観光の出入口の役割を果たしたいと考えています。

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食の魅力あふれる大原に息づく里人の志
土井志ば漬本舗 代表取締役社長 土井健資 氏

土井志ば漬本舗 代表取締役社長 土井健資 氏
土井志ば漬本舗 
代表取締役社長 土井健資 氏

建礼門院ゆかりのしば漬

 大原は京都と若狭を結ぶ鯖街道にあり、かつては「田舎のかたほとり」と舞に歌われたほどの寂しい山里でした。しかし、国道が整備され行楽客が訪れるようになり、また、平家物語で注目されてからは大原観光が一躍ポピュラーになりました。また、大原で有名なものの一つとして、昭和初期頃まで大原から京の都までの道のりを歩き、行商に活躍した大原女があります。彼女たちは紺の着物に絣の前掛けをし、てぬぐいを被った頭に薪を乗せて都へ行き、薪に自家製のしば漬を添えて売っていました。

 かつて、壇ノ浦の戦いで滅亡した平家一門と安徳天皇を弔うため寂光院に隠棲した建礼門院徳子に、村人が大原に自生するシソとナスを漬け込んで献上しました。鮮やかな紫色の漬物は「紫葉漬」と呼ばれ、今でも大原では、どの家も毎年しば漬を漬け込んでいます。また、大原の農家はシソの原種を守り、漬物業者は互いに情報を共有して京都名産しば漬の品質を維持しています。1931年創業の当社は昔ながらの製法にこだわり、里人の志への思いをこめて「志ば漬」を作り続けています。



観光客に交じって料理人も注目する大原の朝市

 毎週日曜日には「里の駅大原」をはじめ大原のあちこちに朝市が出ます。どのお店も早朝から始まり、大原名産の露地野菜を求める人で賑わいます。そのなかにはフレンチのシェフや有名料理店のご主人の顔も頻繁に見られます。当社の「土井の朝市」では漬物や弁当などを販売しており、10月頃には、夏に漬け込んだ漬物の味が落ち着いてくるため、まろやかな酸味のしば漬けが楽しめます。また、10月後半には千枚漬も登場し、11月には手作り弁当のメインが松茸ご飯になります。

 四季折々の変化を見せる大原の山。なかでも最も美しいのはやはり秋です。市街地とは5度以上も気温差があるため、紅葉の赤さは市内でも一番だと思います。また、10月1日~31日には大原女まつりが開催され、大原観光保勝会が大原女衣装を無料で貸出します。17日には大原女時代行列が行われ、一層の賑わいをみせます。

 朝市の後も工場見学、染色体験など終日大原で楽しめますので、時間をかけてゆっくり散策し、地元の人たちともぜひふれあってみてください。

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古来より"縁"をつなぎ、人が集う清水界隈
地主神社 宮司 中川 平 氏

地主神社 宮司 中川 平 氏
地主神社 
宮司 中川 平 氏

蓬莱山に建つ京都最古の神社

 えんむすびの神として知られる地主神社は神代時代の創建と伝えられ、京都の神社でも最古の歴史を誇っています。この神社のある辺りは古来より不老長寿の霊山「蓬莱山」といわれ信仰されました。昔はここから淡路島が見えたともいわれます。淡路島は「古事記」や「日本書紀」の国産み神話に登場するおのころ島とする説があり、日本で一番初めにできた島が見えたというわけです。境内にある「恋占いの石」はアメリカの原子物理学者ボースト博士の研究で、縄文時代の遺物だと確認されました。

 嵯峨天皇や白河天皇など当社に行幸された天皇は多く、松尾芭蕉の師である北村季吟ら文人も多数参拝しています。境内の地主桜は「地主権現の花盛り」と謡曲にうたわれたほど有名で、小唄や俳句、浄瑠璃などにも登場するくらい広く知られた名所でした。



昔も今も老若男女で賑わう

 産寧坂(三年坂)界隈は多くの土産物屋や飲食店が軒を連ねていますが、江戸時代から既に大勢の参詣者で賑わっていました。明治19年(1886)建都千百年を祝って奉納された絵馬には、商家の旦那さんや良縁祈願に訪れた娘さんなどがいきいきと描かれています。当時の風俗を反映して洋服姿もあれば着物姿もありますが、男女や職業の違いなく共に楽しむ場所であったようです。土産物を売る露天商も当時から軒を連ね、界隈では古くから瓢箪と七味が土産物として親しまれていたといわれています。

 本殿前の「恋占いの石」は、目を閉じて片方の石から反対側の石に向かって歩き、無事たどりつくことができると恋の願いが叶うといわれています。江戸時代の文献にも「老若男女、嬉々として戯る」とあり、平成の今も修学旅行生らが遊ぶように占っています。それだけ神様と人間との距離が近いということです。大英博物館でも当社が紹介されており、日本にとどまらず、世界中から観光客が訪れているのがここ清水なのです。

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川床の老舗が届ける貴船の新たなたのしみ
株式会社 右源太 代表取締役 鳥居 宏行 氏

株式会社 右源太 代表取締役 鳥居 宏行 氏
株式会社 右源太
代表取締役 鳥居 宏行 氏

京の奥座敷で川床に遊ぶ贅沢

 貴船の川床は、天保年間に貴船神社近くの茶店が夏の川に縁台を置いたのが始まりといわれており、江戸時代には既に行われていました。当時は参拝や裕福な商人が接待に訪れるちょっと敷居が高くて特別な場所というイメージがあったようです。京都の豪商は遊び上手で、料理を持ってこさせたり、舞妓さんを連れての遊びも戦前からありました。その後、昭和4年の叡山電車鞍馬線開通に伴って、多くの人が気軽に川床へ足を運ぶようになりました。

 かつて集落には100軒近くの民家があり、明治以後も20軒が残っていました。当家は両親が鳥居姓でともに社家をしており、父方は社家の役職名でもある"右源太"と呼ばれていました。それが屋号になったのです。

 右源太は私で11代目となります。大正時代の建物で料理屋を始めたのが40数年前。バブル頃までは旦那衆がおられましたが、今はどの店も大半が女性客や観光のお客様です。



パワースポット貴船の新たな楽しみ

 貴船の夏はむせるような新緑で始まります。真夏は緑も濃くなり、山間の風が軽やかに吹き抜けるため、天然の涼しさも魅力で、京都の中心部とでは気温が5度は違います。そのため真夏でも夜は寒いくらいです。昼は川に下りていくとひんやりと涼しい風が吹き、川からのしぶきがその風に乗って頬に当たり、汗が引いていきます。そして、夏の定番の川床では、そんな川辺の雰囲気とともに鮎の塩焼きや鱧の落としなどが味わえます。

 涼を満喫する夏はもちろんですが、秋の紅葉のライトアップや冬の静けさも魅力です。オフシーズンには静寂の中で写詞する「書写祓」が貴船の各店で体験できます。「穢れ」の語源は「気涸れ」であるといわれ、穢れを祓うと気力が蘇るといいます。また、貴船は「気生根」とも書き、古来より気力が生まれる場所、今でいうパワースポットです。

 鞍馬山は極相林の状態が長く続いているため、樹木の構成が昔とほとんど変化していません。そのため、義経が生きた時代の雰囲気を、その時代と変わりなく体験することができます。日帰りで訪れた方は周辺の散策を、宿泊の方は露天風呂やリンパエステなどを楽しんでいただき、今までとは違う新しい貴船の魅力に触れていただきたいと思います。

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銘菓に京の心を包み「ほんまもん」を極める
井筒八ッ橋本舗 代表取締役社長 津田 純一 氏

井筒八ッ橋本舗 代表取締役社長 津田 純一 氏
井筒八ッ橋本舗
代表取締役社長 津田 純一 氏

つぶあん入り生八ッ橋の草分け

 「六段の調べ」をはじめとする名曲を生み出した、箏曲八橋流(後世の生田流)の開祖 八橋検校は常に天与の恵みを大切にし、人々にそれまで捨てていた流れ米で煎餅を焼くことを教えました。その遺徳を偲んで、享保年間に琴の形を模して作られた堅焼煎餅が八ッ橋のはじまりです。

 やがて洛中でお茶菓子として愛でられるようになった八ッ橋は、いつしか京の名物菓子として全国に知られるようになりました。ちなみに、八ッ橋は京菓子ではなく、その土地にまつわる故事来歴が背景にあり、地域で取れる原材料を用いたもの、名産菓子となります。

 私どもがつぶあん入り生八ッ橋の草分けとなった「夕霧」を発売したのは昭和22年(1947)で、井筒八ッ橋本舗は祇園南座前が発祥の地であったことから、歌舞伎にちなんだ上菓子として考案しました。近松門左衛門が名妓「夕霧太夫」をモデルに書き下ろした「廓文章」。その主人公が持つ編笠模様に八ッ橋を仕立て、その中に極上の小倉あんを配しています。それから20数年後に姉妹品として発売したのが今、最も親しまれている叙情銘菓「夕子」です。



家訓「利益より永続」を固守する

 昔から京都では「菓子屋と屏風は広げたら倒れる」と言われてきました。商いを大きくするよりも、末永く続けることを大事にせよという戒めです。文化2年(1805)の創業以来、200年余の時を暖簾に刻んできた井筒八ッ橋本舗も「利益より永続」を家訓に精進を重ねてきました。私どもは、品質にこだわり"ほんまもん"をお届けすれば、お客様は納得されると信じております。そしてまた「これだけのものがこの値段やったら値打ちあるなぁ」といっていただけたら、それがいちばんの商品だと思います。

 私どもは同業他社をライバルとは考えていません。それぞれが独自の個性ある道を切り拓けばよいのです。井筒は井筒流の道を弛みなく歩み、極めていきたいと願っています。東京は「大都会」ですが、京都はいまでも町衆や町家という言葉があるように「町」のサイズを保っています。それは、心の絆を深め、歴史を受け継いでいく上で大切なものだと感じています。

 京都へ来られたら、ぜひ"ほんまもん"を訪ねていただき、「良いなぁ」と感じたら、褒めてやってほしい。それが京都人の何よりの歓びなのです。

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悠久の歴史を想い次代の象嵌を探る
川人象嵌 代表取締役 川人 一郎 氏

川人象嵌 代表取締役 川人 一郎 氏
川人象嵌 代表取締役
川人 一郎 氏

京象嵌の美を磨いて創業90年

 素地に異なる素材で模様を「象り」ながら「嵌め込む」ことを象嵌と称し、それに金属を用いたものを金工象嵌と呼びます。その歴史は紀元前3000年前後のシリアのダマスカスが発祥の地とされており、これが欧州に広がり、やがてシルクロードを経て中国に入り、古墳時代の日本に伝えられました。4世紀に百済から倭へ贈られた国宝「七支刀」の刀身には金象嵌銘文が施されています。その後、平家の落ち武者の隠棲地で伝承され、江戸時代の末期に京象嵌が誕生しました。

 私の父親である川人芳男は少年時代に上洛し、京象嵌の総本家であった駒井象嵌店で厳しい修業を積みました。暖簾分けを許され、川人象嵌を創業したのは大正8年(1919)になります。仕事に励む父親の姿を見ながら育った私ですが、仕事を継ぐとは考えていませんでした。その思いを翻させたのは「お父さんは京都一の職人なんやで。その後を継がへんなんてもったいない...」という叔母の一言でした。そのおかげで父親を見直し、仕事を継ぐと決心し、22歳の時に先代から現職を受け継ぎました。



京の極みの技が映える高雅な趣

 京象嵌の多くは布目象嵌によって作られており、川人象嵌もこれを専門に手がけています。素地に鏨で布目状の細かな溝を刻み、そこに金銀の糸や平金を打ち込んで模様を描き、さらに漆焼を施します。京の極みの技が映える高雅な趣が特徴です。また、川人象嵌では謄写印刷に使う謄写版を布目板に用いることによって高価な象嵌品の価格を抑え、普及に努めています。昭和63年(1988)にショールームや資料展示コーナーなどを設けた「川人ハンズ」を開設したのも、一人でも多くの方に象嵌の魅力と歴史を知っていただくためです。

 象嵌の美は何千年という時を刻みながら磨かれてきた至宝の技です。これを次代に受け継いでいくためにも、つねに感性を研ぎ澄まし、新たな分野を切り拓いていかなければならないと考えています。ちなみに、川人象嵌のある一条通は平安京の北辺だったところです。史跡も点在し、妙心寺も間近にあり、散策すれば千年余の歴史が心によみがえってきます。

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賀茂の今昔を暖簾に刻む京料理の老舗
茶懐石 下鴨茶寮 五代女将 佐治八重子 氏

茶懐石 下鴨茶寮 五代女将 佐治八重子 氏
茶懐石 下鴨茶寮 五代女将
佐治八重子 氏

下鴨神社のお茶処として創業

 佐治家は平安京の時代から伊勢神宮とともに朝廷から崇められてきた下鴨神社の御用達庖丁人をつとめてまいりました。祭儀のための神饌を献進し、宮廷からの勅旨を饗応するためのお料理を支度する役目を仰せつかりました。

 下鴨茶寮は当初、神社に参拝する人たちが休憩するお茶処でした。やがて茶懐石と京料理のお店になり、明治22年(1889)には下鴨神社の大宮司であった六條有熙様から現在の店名を頂戴し、改名いたしました。また、私どもの茶室「参蝉庵」の名は高名な歴史家・奈良本辰也先生から頂いたものです。

 先々代の父が生前、いつも口癖のように言っていたことがいくつかあり、それを父が亡くなった後も、姉の政子(先代・故人)とともに忠実に守ってまいりました。まず「おもてなしは十二分に」ということ。十分では足りない、十二分に心配りをしなくてはいけない、と厳しく教えられました。そして京料理の基本は「土産土法にある、というこだわりを徹底せよ」と。土産土法とは「その土地でとれた素材を使い、その土地に古くから伝わる方法で調理する」ということです。この考えの実践に欠かせないのが京野菜です。安定した生産量を確保するために、何軒かの契約農家に京野菜の生産をお願いしております。



三千家様など多彩なひいき筋

 私どものおもてなしの訓辞は「真心ひとすじ」です。おかげさまで数多くの皆様に格別のお引立てを賜っております。たとえば、表千家様、裏千家様、武者小路千家様の三千家様にもごひいきにしていただいております。日本人で初めてノーベル賞を受賞された物理学者の湯川秀樹先生も、散策の途中などによくお立ち寄りいただきました。京都大学の先生方にも60年余にわたってご愛顧いただいております。海外からのVIPを迎えることも少なくありません。私どもの店を選んでいただいて足を運んでくださるということは、まさに一期一会のありがたいご縁です。

 この先も、相伝を守ることで京文化の伝統を守り、真心ひとすじに"本物"を次の世代に伝えていきたいと願っております。

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関雪桜がつなぐ哲学の道の今昔
白沙村荘橋本関雪記念館 副館長 橋本 眞次 氏

白沙村荘橋本関雪記念館 副館長 橋本 眞次 氏
白沙村荘橋本関雪記念館 副館長
橋本 眞次 氏

西田幾多郎と橋本関雪ゆかりの小道点

 哲学の道は琵琶湖疎水沿いに銀閣寺橋から若王子橋まで続く約2キロの小道で、道沿いには桜並木が続きます。哲学者、西田幾多郎がこの辺りを好んで散策したと言われ、地元では「哲学者の小道」とも呼ばれていましたが、京都市が「哲学の道」と命名し、その名が定着しました。かつては敷石もなく、水量も今より多かったようですが、「日本の道百選」に選ばれた頃から整備が進み、現在の敷石が続く道へと至ります。

 関雪桜と呼ばれる桜並木は、京都画壇で名をなした日本画家、橋本関雪が、貧しい時代を支えてくれた京都の人たちへの報恩として大正10年に360本の桜を寄贈したのが始まりです。関雪は銀閣寺近くに居を構える以前は、南禅寺に住んでおり、南禅寺と銀閣寺を桜でつなぐという意味もあったようです。近年、関雪桜の老齢化が進んでいるため、京都市が接ぎ木でクローン苗木を増やす作業を始めています。


存古楼


存古楼 内観

自然と芸術家が創る美の世界

 哲学の道では桜以外にもツツジやミツマタ、ヤマブキといった花々が散策者を楽しませてくれますが、水辺にもぜひ目を向けて下さい。流水が作る花筏、橋の下にはオイカワやどんこ等の魚が隠れていたり、時には魚を狙うカワセミの姿を見かけます。鳥のさえずりも聞こえ、以前はキツツキやムクドリをよく見かけたものです。

 哲学の道周辺には古くから、自然を愛する文化人や芸術家が好んで住み、工房やクラフトショップが点在しています。また、道中にある法然院には谷崎潤一郎の墓もあります。

 関雪邸宅跡である白沙村荘で目を見張るのは彼の美意識。庭や建物を自らの意匠で設計しており、美意識にぶれがないため造営時期に隔たりがあっても全体が見事に調和しています。広大な庭は歩くごとに景色が変わるよう計算され、池畔から望む大文字が印象的です。この庭はいわば関雪が描いた立体の山水。竹林では藪の羅漢が、亡き妻の菩提を弔うため建てたお堂を見守っています。展示室では春には花鳥を中心に華やかな関雪の作品を展示。世代を超えて、哲学の道や白沙村荘で観た世界を、記憶にとどめて欲しいと願っています。

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