京都千年物語。

夜が艶やかに匂い立つ 京都で最も古い花街・上七軒
大文字 今井 貴美子 さん

吉田神社 権禰宜 箕西 孝誠 氏

「西陣の奥座敷」と称され、
その肥えた目で磨かれてきた花街

 現在、京都には舞妓や芸妓の遊芸を楽しむ花街が5つあり、それらは「五花街」と呼ばれていますが、その中で最も古い歴史を受け継いできたのが上七軒です。室町時代の文安元年(1444)に北野天満宮の社殿の一部が焼失し、大規模な修築が行われました。その際に残った資材で、東門前の松原に天満宮へ参詣する人々の休憩所として七軒のお茶店を建て、七軒茶屋と称したのが上七軒の地名の由来といわれています。その後、天正15年(1587)に豊臣秀吉が天満宮で「北野大茶の湯」を催した時に、七軒茶屋が献上した名物の御手洗団子をいたく気に入り、褒美としてこの団子を商う特権と山城一円の法会茶屋株の公許を頂戴し、日本初のお茶屋が誕生したのです。上七軒のお客様は主に西陣の旦那衆で、室町の問屋の方々を接待されたので、「西陣の奥座敷」という別称も生まれました。ご主人方は何方もお稽古事がお好きで、目が肥えておられます。当然ですが帯や呉服の良し悪しもひと目で見抜かれます。ですからおのずと芸や立ち振る舞いが磨かれました。このようにして上七軒の舞妓や芸妓はお客さまに育てられ、花街としての格式を高めてきたのです。お提灯と街灯だけの艶やかな夜の風情も上七軒ならではのものです。


京の春を彩る「北野をどり」

 毎年、4月に催しております「北野をどり」は昭和27年(1952)に北野天満宮の千五十年大萬燈祭への奉賛として「北野天神記」を公演させていただいたのが始まりです。踊りを披露する上七軒歌舞練場は明治時代に建てられたもので、改築を重ねて今日に到っています。このような大規模な木造の劇場は全国的にも稀少で、花街と京都の近代史を辿る上でも貴重な遺構となっています。「北野をどり」はその成り立ちを受け継いで一部は舞踊劇仕立て、二部が純舞踊、最後を総踊りで飾ります。平成22年は3月25日(木)~4月7日(水)まで開催する予定です。第一部の舞踊劇は「竜神の嫁」、第二部の純舞踊は「舞扇京芝居」、フィナーレはおなじみの「上七軒夜曲」です。「竜神の嫁」は雨とひきかえに美しい娘を差し出せという竜神に挑む若者と狐の娘の恋の行方を綴った物語。春の京都にお越しの折には、ぜひご覧ください。心に残るひと時をお過ごしいただけると思います。

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八百万の神々を生んだ大元の神様を祀る吉田神社
吉田神社 権禰宜 箕西 孝誠 氏

吉田神社 権禰宜 箕西 孝誠 氏吉田神社 権禰宜 箕西 孝誠 氏

平安時代に藤原山陰が都の鎮守神として勧請

 桓武天皇による平安遷都から65年後の貞観元年(859)に、藤原山陰が一門の氏神を勧請したのが吉田神社の起源です。古来から霊域とされてきた吉田山に鎮守社を建立し、力の強い神様をお祀りすることによって平安京の鬼門除けとし、「都が繁栄するようにお守りいただきたい」と願ったわけです。当時は藤原氏が隆盛の時代であり、政治も祭事も同次元のものでした。現在でも政治のことを「政(まつり)」というのは、その名残です。
 室町時代の末期に当たる文明年間(1469-1487)に「神道の中興の祖」と讃えられる吉田兼倶(よしだ かねとも)が吉田神道を創始します。それまでは、教義が理解しやすい仏教の方が広く受け入れられていましたが、この新たな唱えにより、自然崇拝を根幹とする神道の権威が高まりました。ちなみに、吉田神社に詣でれば全国の神社にお参りしたのと同じご利益があると言われていますが、これは兼倶が境内に八百万の神々を生み出した大元の神を祀る斎場所大元宮を建立したことによります。


節分の前夜の追儺式は宮中の古風を伝える儀式

 節分の前夜に執り行う追儺式は、本来は平安時代より続く、宮中の年末の儀式です。その信仰は中国からもたらされたもので、大晦日の夜、際立つ神通力を持った方相氏(ほうそうし)が厄を祓います。ここでは、神道で言う「疫神」、漆黒の闇に潜む邪悪な神を具現化した、目に見えない「邪鬼」が登場します。方相氏もきわめて異形の姿をしており、金色四ツ目の仮面をつけ、手に矛(ほこ)と盾(たて)を持っています。 宮中の祭祀を司っていたのは藤原家でした。それゆえ、室町時代に町衆の文化が高まる中で、吉田神社が節分を庶民向けの祭事にし、宮中の年末の儀式である追儺式を、昭和3年に初めて一般に公開しました。現在、数多くの神社で追儺式が行われていますが、すべて宮中の儀式を模したものですから、その源流は吉田神社にあります。これが節分の祭礼に重なったのはもっとも寒気が厳しく、立春の前日に陰と陽が交わり、邪気が生じる時と信じられていたからで、すべてを清めて、春を迎えたい。そんな切なる願いが庶民の追儺式を生み出したのではないでしょうか。

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錦市場から京都のこだわりの食文化を発信
京都錦市場商店街振興組合理事長 枡悟 代表取締役  宇津 克美氏

京都錦市場商店街振興組合理事長 枡悟 代表取締役  宇津 克美氏京都錦市場商店街振興組合理事長
枡悟 代表取締役  宇津 克美氏

平安時代からの町衆の路・錦小路

 市場は約400年前に誕生 錦小路は平安京の時代から歴史を刻んできた町衆の路です。当時の大路・小路は、貴族を乗せた牛車が行き交う極めて幅の広い通りだったため、人々は日々の生活に便利な小路を造りました。その一つが錦小路です。名称の由来は諸説がありますが、「宇治拾遺物語」第19話「清徳聖奇特の事」の説話では、時の帝が四条通りの一つ南の綾小路が綾織にちなむことから、それではと錦織にちなみ名付けられたと伝えています。推定では、約400年前に魚鳥の市場が開設され、江戸時代に入ると本格的な魚市場になり、元和元年(1615)には幕府から魚問屋の認可を受けました。鑑札を得て商いをしている所を「店」と呼び、「上の店」「錦の店」「下の店」が魚の商いを京都全域一手に引き受けていましたが、明治時代になってこの特権がなくなり、「店」は廃れていきました。しかし、"錦"は青物市場も併設していたので生き残ることができました。昭和2年(1927)には、全国に先駆けて京都中央卸売市場が開設されたことで、錦市場の魚屋の約半数が移り、その後に、新たなお店が錦に入ってきました。この時に、今日まで続く錦市場の原形ができたのです。昭和38年(1963)には京都錦市場商店街振興組合を設立。現在、約390mの通りの両側に各店が軒を連ね、多彩な商いを行っています。


各店が「独自の顔」を持ち「ほんまもん」を徹底的に追求

 小売りだけでなく、卸もしているのが錦市場の特徴の一つで、客筋は老舗の料亭をはじめとする食の匠の方々と市民の皆様です。長い歴史を背景にした玄人の評価が、味に厳しい京都の人々を引きつけています。また、茶道や華道の家元、本願寺などの本山には全国各地から多くの人が訪れ、京都の食文化や、そのお土産を錦市場でお求めになり、「錦の味」は全国に広がっていきます。錦市場には同じ業種のお店がいくつもあるため、地方の方々は共倒れを懸念されますが、各店が「独自の顔」を持っているので揺らぐことはありません。「商いの質」にこだわり、「ほんまもん」を徹底的に追い求める姿勢が、各店の特化に直結し、「錦市場のブランド」を高めているのです。先人が成したことをそのまま受け継ぐのでなく、彼らが目指したものを見詰め、新しいことに挑む姿勢を持ち続ける。京都の商人にとっては自明のことです。また、錦市場から京都の食文化を内外に発信するために、官民連携の「錦にぎわいプロジエクト」も立ち上げ、フィレンツェ市公設市場との提携を図るなど、新施策も活発に展開しています。

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八坂神社の歴史
八坂神社宮司 森 壽雄氏

八坂神社宮司  森 壽雄氏八坂神社宮司 森 壽雄氏

創祀

 八坂神社は慶応4年(1868)5月30日付の神祇官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していました。創祀については諸説ありますが、社伝によれば斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之が、新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地にお祀りしたことに始まるといわれています。また、一説には貞観18年(876)、南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいわれています。


朝野の崇敬

 平安時代の貞観11年(869)、都に疫病が流行した時、疫病退散を祈り平安京の広大な庭園であった神泉苑に当時の国の数であります六十六本の鉾を立て、祇園社(現八坂神社)の神輿を送り祇園御霊会が行われました。
 元慶元年(877)の疫病流行に際しては殊に神威の発揚著しく、2年後の元慶3年(879)には陽成天皇より堀川の地十二町が神領地として寄進され、ここに当社の経済的基盤が早くも確立しました。
 また、藤原氏全盛時代にはその中心人物の崇敬もあつく、基経(昭宣公)はその邸宅を寄進して感神院の精舎としたといわれ、道長もたびたび参詣をしました。このことは当社の地位が次第に高まることに結び付き、天延3年(975)6月15日に円融天皇は走馬・勅楽・御幣を奉られ、これ以後、祇園臨時祭(現在の例祭)が継続執行されるようになりました。そして、長徳元年(995)には王城鎮護の社として尊崇された二十一社のうちの一社となり(のち二十二社)、延久4年(1072)に後三条天皇が行幸されると、これ以後、天皇・上皇の行幸・御幸もたびたびでした。  いっぽう武家の崇敬もあつく、平清盛の田楽奉納・源頼朝の狛犬奉納をはじめとして、足利将軍家は社領の寄進・社殿の修造を行い、豊臣秀吉は母大政所の病気平癒を祈願し、焼失していた大塔を再建するとともに、一万石を寄進し戦国期に荒廃した当社の再興が進みました。また、江戸時代には徳川家も当社をあつく信仰し、家康は社領を寄進、家綱は現存する社殿を造営、数多くの神宝類を寄進しました。
 明治維新を迎えると明治4年(1872)に官幣中社に列格、大正4年(1915)には官幣大社に昇格しました。
 現在では千百有余年の歴史を有する7月1ヶ月間に亘る壮大な祭礼「祇園祭」、また大晦日から元旦にかけての「をけら詣」の神社としてあつく信仰されております。

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紅の京の秋を旅し、京焼・清水焼を愛でる
京焼・清水焼 京都青窯会協同組合理事長 森 俊次氏

京焼・清水焼 京都青窯会協同組合 理事長 森 俊次氏京焼・清水焼 京都青窯会協同組合 理事長
森 俊次氏

先人たちが開窯して90年、
54の窯元が作陶に打ち込む泉涌寺窯

 東山の泉涌寺は空海が草庵を建てた地と伝えられており、天皇家の菩提所になって「御寺(みてら)」と呼ばれるようになりました。この泉涌寺地区に京焼・清水焼の先人たちが開窯したのは大正3年(1914)。次々に窯が開かれ、多い時には14本の登り窯があったと聞いています。元々この地は「やきもの」と縁が深く、太閤秀吉が大仏殿の造営時に瓦窯を築かせています。京都青窯会協同組合が結成される基になったのは、昭和35年(1960)に誕生した泉涌寺青窯会です。当時、京都の伝統産業界では京都府の指導によって相次いで青年会が結成され、このような時代背景のなかで発足したのです。それから8年後に協同組合が生まれ、昭和50年(1975)に青窯会会館が完成しました。現在、54の窯元が集(つど)っており、泉涌寺窯の伸展と各自の作品を世に問うために、力を合わせて積極的な活動を展開しています。京焼は、茶の湯が広まった江戸時代の初め頃に東山地域を中心とする京窯で焼かれたものの総称です。その特徴は技法と表現の多彩さということでしょう。そこには千年余の歴史のなかで育まれ磨かれた各分野の伝統の美と心が深く息づき、交響しあっています。かつて公家などが所望(しょもう)する陶器をつくらせるために、地方から職人たちを京都に招いて焼かせたことも多様性の一つの源になっています。


地元全域をギャラリーにした作陶展、
"泉涌寺窯-もみじまつり/窯元大陶器市-"

 青窯会会館では、泉涌寺窯の窯元の作品の数々を展示即売しています。観光客の方々も気軽にお立ち寄りいただけるギャラリーです。ご希望があれば、窯元もご紹介させていただきます。陶芸家を訪ねることも旅を彩るよき思い出になると思います。気に入れば、オーダーメイドされることも可能です。また、会館では陶芸の体験教室を開いています。「下絵付体験」では、素焼きの生地に呉須(顔料)で思うままに絵を描くことができます。手動のろくろを廻して成形までを楽しめる「手びねり体験」もあります。ほかに、たとえば1月の「七福神巡り」で、泉涌寺が賑わう頃に「泉涌寺塔頭戒光寺・陶器バザー」を毎年催し、お正月の風物詩として定着しています。窯元が新作を発表する「青窯会作陶展」は京都の老舗「たち吉」で開催しています。来年は東山区のホテルの料理長に料理を盛っていただく新企画(2月26日~3月9日)を考えています。秋の大きな催事としては"泉涌寺窯-もみじまつり/窯元大陶器市-"※1があります。地元全域をギャラリー に見立てた作陶展で、多彩な催しを予定しています。東山の紅葉の名所として名高い東福寺などの観光を兼ねて、泉涌寺窯の界隈を散策していただければと思います。清水寺や八坂神社、少し足を伸ばして永観堂や、時代祭の装束※2を間近で見ることができる岡崎の京都市勧業館なども見どころかと思います。

※1 "泉涌寺窯-もみじまつり/窯元大陶器市-":「京の歳時記」参照
※2  「時代祭展」:京都市勧業館内の京都伝統産業ふれあい館では、平成21年12月20日まで時代祭の装束を各時代ごとにシリーズ展示する「時代祭展」を開催中

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第6回
次代に受け継がれる知恵を伝えたい
京蒔絵師 下出祐太郎氏

京蒔絵師 下出祐太郎氏京蒔絵師
下出祐太郎氏

無限の表現を秘めた京蒔絵に、
先人たちのこだわりの深さを知る

 かつて漆器の発祥の地は中国だと考えられていましたが、平成13年に北海道の垣ノ島の遺跡から約9,000年前の漆器が出土し、現在世界最古のものは日本ということになっています。漆器に装飾を施す蒔絵は日本独自の技法で、奈良時代に生まれました。蒔絵筆を用いて漆で模様を描き、これが乾かないうちに金粉などを蒔き、さらに研ぎ出しや磨きを行って器面に高雅な美の世界を表現していきます。主な技法としては平蒔絵、高蒔絵、研出<とぎだし>蒔絵などがあります。たとえば、金粉だけでも丸粉、梨子地粉、平目粉と3種類の粉があり、それぞれ粗さによって15から20段階に分けられ、60前後の種類があります。さらに、金箔を粉にしたもの、銀と銅を僅かに加えた青金、銀、プラチナなども使います。これだけを見ても、蒔絵が実に多彩なものであることがおわかりいただけると思います。たとえば、同じ形の葉でも何百もの違った表現ができるのです。先人たちのこだわりの深さに驚嘆します。また、有機質の漆と無機質の金属を見事に融合した発想も凄いと思います。歴史的には各時代によって特徴が異なります。平安時代は貴族嗜好が顕著に反映され、鎌倉時代には武家文化を映した品々が作られ、室町時代以降には和歌などを主題にした作品も見られるようになります。『春日山蒔絵硯箱』(根津美術館蔵)では壬生忠岑<みぶのただみね>の和歌の下の句の情景を蓋の表面に表し、上の句を裏に配しています。心憎い趣向です。技巧の粋を凝らした江戸時代の『初音の調度』も見事です。


感銘を受けた漆芸家に師事し、蒔絵師としての道を見出す

 祖父の代から蒔絵師で、私も在学中からこの世界を志しました。しかし、次第に「これでよいのか...」という思いが大きくなり、漆芸家の東端真筰<ひがしばた しんさく>先生に師事し、個展のお手伝いなどをさせていただきました。残念なことに先生は急逝されましたが、この短い日々の中で蒔絵師としての道を見出すことができました。その後、26歳の時に日展に初入選し、その作品が文化勲章をご受章の漆芸家の佐治賢使<さじ ただし>先生の目にとまり、貴重な教えを受けることができました。最近の代表的な仕事の一つは京都迎賓館の調度です。会談室の調度品の蒔絵を手がけました。「水」が全体のコンセプトであり、貴賓室の"金の間"に対して"銀の間"と呼ばれていました。そこで、当初は水の煌きを銀粉で表現しようと考えたのですが、外国の要人の方々には錆びた銀の趣は理解いただけないと判断してプラチナを用いることにしました。試算すると金よりもはるかに高価なプラチナが約1kg必要でした。これを炉壺で溶かし、0.7㎜のノズルで抽出。針金状にして、すべて手作業で1.5㎜に断裁しプレスしてもらいました。総数は約7万粒。一粒貼るだけで2分はかかるものがありましたので、気の遠くなるような作業です。しかし、納得の行く仕事ができました。現在は伊勢神宮御遷宮の御神宝を手がけています。この世を辞する前に、次代に受け継がれる知恵を伝えられれば、それに勝る幸せはありません。

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「先義後利」を心に、新たなる挑みを
半兵衛麩十一代目 玉置半兵衛氏

半兵衛麩十一代目 玉置半兵衛氏半兵衛麩十一代目
玉置半兵衛氏

石田梅岩の教えに傾倒し
半兵衛麩の礎を固めた三代目

  麩は室町時代に中国へ渡った修行僧によって伝えられ、宮廷や寺院の中で育まれていきました。その後、懐石料理や法事の会食に用いられ町衆にも広く食されるようになり、京の都の食文化に欠かせない食材となっていったのです。また、「千利休百茶会記」(1590~91)には"ふのやき"を百回の茶会中に七十数回も用いたと記されており、利休がこの菓子をことのほか好んだことがわかります。これにならって、江戸時代の茶人たちが残した茶会記には"ふのやき"が数多く記載されています。
 初代玉置半兵衛が麩屋を創業したのは江戸時代の中頃、元禄2年(1689)です。玉置一族は熊野三山の奥の院といわれる玉置神社のある吉野郡十津川で代々続いた豪族でした。古社の建つ玉置山は7世紀後半に修験道の本拠地となった霊山です。時を経て、近衛家と姻戚関係にあった玉置家は、御所で帝の護衛と食事や饗宴を担う大膳の仕事に就き、宮中で料理を学んだ初代半兵衛が京都で麩づくりを始めました。以来、320余年、私で十一代目になりますが、その礎を固めたのは三代目です。
 三代目は、日本で初めて商いの道を説いた石田梅岩の教え「石門心学」に傾倒し、その弟子であった杉浦止斎に学び、雅号"宗心"を賜ります。自分の2人の娘に、"梅"と"岩"と名づけているのを見ても、彼が心学にどれほど心酔していたかを知ることができます。やがて、三代目の周りには京都の老舗の旦那衆が教えを学ぶために集うようになり、講に基づく勉強会が継続的に開かれるようになりました。



父親に教えられた「不易流行」本質を変えず、革新を続ける

 京都商道の開祖といわれる石田梅岩は、江戸時代中期の貞享2年(1685)、現在の亀岡市の農家に生まれました。23歳の時に京都の呉服屋に奉公し、以後20年近く商人として働きながら勉学に没頭し、45歳で念願の講座を開きます。梅岩は「商人が利益を得るのは、武士が禄をもらうのと同じ」と説き、「仁・義・礼・智が信を生む」と教え、実践しない学問にはなんの価値もないと諭しました。三代目が定めた家訓「先義後利(義を先じて、利は後とする)」は、この商いの道に基づくものです。
 その精神は半兵衛麩の誇りとして受け継がれ、幕末の時代に生きた八代目も山岡鉄舟直筆の「石田梅岩先生之霊位」と書かれた掛け軸を毎朝拝んでから仕事に励んだと聞いています。また、敗戦直後の食糧難の時代に直面した父(十代目)も、闇市の小麦粉を使えば暖簾を汚すことになると考え、頑なに商いの正道を守りました。「闇の麩をつくれば儲かるのはわかっているけど、ご先祖さんが大切にしてきた麩を闇でつくることは、申し訳なくてできひん」という言葉が今も心に残っています。「不易流行」の大切さも父親から学び、「いつまでも同じことをしてたらあかん。その時代に合った絵を描け」と教えられました。本質は変えずに、つねに新しいものを追えということです。それまでのものを守っていくのは、伝統ではなく伝承です。そのような商いは成り立ちません。革新の連続が伝統であり、老舗であると確信しています。すべてに対する感謝を胸に新たな挑みを続け、"京麩"を通じて京文化の次代に少しでも寄与できればと願っています。

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