京都つたえびと。

小町の寺で隠れた歴史に触れる
隨心院 執事長 亀谷英央 氏

隨心院 執事長  亀谷英央 氏
隨心院
執事長 亀谷英央 氏

百夜通いで知られる小野小町ゆかりの寺

隨心院は弘法大師より8代目の弟子に当たる仁海僧正が建立した曼荼羅寺の塔頭だった寺です。しかし、時とともに曼荼羅寺は廃れ、鎌倉時代に隨心院が門跡寺院となりました。

京都・山科区小野は、その地名にもあるように小野氏の所領だった場所で、絶世の美女と謳われた小野小町の実家があったといわれています。仁明天皇が崩御された後、更衣として仕えていた小町は小野に戻り、余生を過ごしたと伝えられています。隨心院は小町の屋敷跡に建てられたもので、小町が使った化粧の井戸や、貴族たちからの恋文を下張りしたとされる小野小町文張地蔵尊像、その恋文を埋めた文塚、晩年の小町を写したものといわれている卒塔婆小町座像などが残されています。また、小町を慕う深草少将が雨の夜も雪の夜も通い続けた百夜通いの伝説にまつわる遺跡も数多く、深草少将が通ったといわれている深草少将百夜通いの道などがあります。

 

お守りにもできる写経や写仏が人気

寝殿造りの堂内には本尊の如意輪観世音菩薩坐像をはじめ、重要文化財に指定された快慶作の穏やかな表情の金剛薩坐像や定朝作の阿弥陀如来坐像などの仏像が安置されています。

当院では写経や写仏も随時体験でき、110種類以上の写仏が可能です。お香を焚いた閑静な部屋で心を落ち着けて描くと、思いのほかうまくできると好評で、大きな達成感もあり、何度もお越しになる方もおられます。お描きになったものは毎月17日の奉納法会後、ご自宅に郵送しており、それをお守り袋に入れると自作のお守りになります。

3月中旬からは境内の紅梅が咲き、春分の日には見ごろを迎えます。また、3月最終日曜には特設舞台ではねず踊りが行われ、その前日には文張地蔵や卒塔婆小町座像を安置した能の間で奉納舞があります。

山科には見所も多く、中世の隠れた歴史に出会うことができる場所。下調べして訪れると、より深く楽しめる満足度の高いエリアですので、ぜひお越し頂き、歴史の息吹に触れてほしいと思います。

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清泉いづる伏見の産土神で歴史を体感する山
御香宮神社 宮司 三木(そうぎ) 善則 氏

御香宮神社 宮司  三木 善則 氏
御香宮神社 宮司
三木(そうぎ) 善則 氏

自然崇拝から神功皇后信仰へ

伏見は水とのゆかりが深く、湧き水が田畑を潤し、古くから農業が盛んな土地でした。当社は生命が生まれる森を御神体とした御諸神社と呼ばれていましたが、当社の縁起書によると貞観4年(862)境内にある椎の木の根元から香りの良い水が湧き、飲むとたちまち病気が治ったため、清和天皇より御香宮の名を賜ったとされています。また弘仁年間に福岡の香椎宮に仕える童女の夢枕に安産守護の神として名高い、神功皇后が立たれ、御霊を京都に祀れば争乱が治まるとのお告げがあったことから、この地に御霊を移し、御香椎宮から御香宮になったと伝える文献もあります。

豊臣秀吉は朝鮮出兵の際に神功皇后の御神徳にあやかろうと太刀と願文を献じています。伏見城築城後は城下町や宿場町として多くの人が伏見を行き交いました。また伏見は、徳川家との縁も深く、徳川家康が住み、徳川御三家はこの地で生まれ、当社の御香水を産湯に使われました。

 

自然観と歴史文化を次世代に

当社の名の由来となった井戸は明治期に一度涸れてしまいましたが、昭和57年(1982)本殿東に再現しました。その際、環境庁(現 環境省)の名水百選に選ばれ、御香水を求めて多数の参拝客が訪れるようになりました。この清泉は京都が自然豊かな時代に降った雨が長い歳月を経て地下水になったものです。そのため、この名水を引き続き次の世代に残すため、自然を大切にする心を伝えることが我々の使命だと考えています。

本殿は平成2年(1990)に極彩色の彫刻を施した豪壮華麗な桃山様式を復元、境内には伏見奉行所から移築した小堀遠州ゆかりの庭もあります。また、表門は水戸黄門こと徳川光圀の父、徳川頼房が、伏見城の大手門を拝領して寄進したものです。当社は鳥羽伏見の戦いで官軍の屯所となった地であるため、日本の夜明けのために繰り広げられた激戦を、表門は知っています。

伏見には酒蔵や坂本龍馬ゆかりの寺田屋もあり、歴史が生きている町ですので、日本の歴史を直に感じることができます。日本史が好きな方や興味がある方は、ぜひお越しいただき、探索を楽しんで頂ければと思います。

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法然上人の教えを今に伝える浄土宗の総本山
総本山知恩院 文化財保存局長 前田昌信 師

総本山知恩院 文化財保存局長  前田昌信 師
総本山知恩院 文化財保存局長
前田昌信 師

見えないところに贅を尽くした御影堂

承安5年(1175)に浄土宗の元祖法然上人が、知恩院の建つこの地で草庵を結び、極楽往生を願って「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば阿弥陀様が救ってくださるという、専修念仏の教えを説き、広められました。法然上人はここで念仏布教の生涯を送り、亡くなられますが、その後、弟子の源智上人が、御影堂、御廟堂、仏殿、総門を建てると、知恩教院大谷寺と名づけ上人の徳を偲びました。この院号は、弟子たちの集まりが知恩講と呼ばれたことに由来します。

現在の伽藍が整備されたのは江戸時代で、徳川家が浄土宗に帰依していたため、徳川家康は知恩院を菩提寺に定めると堂舎の造営を命じ、一気に寺地の規模が広がりました。

本堂である御影堂は、一見シンプルですが柱が太く、野地板や天井板に最高級のまさ目板を使うなど、見えない部分が極めて実利的に作られています。知恩院の建物は、豪華さを外に見せつけるのでなく内面でひたすらお念仏を唱えよという法然上人の教えを具現化しているのです。御影堂は通年拝観可能で、毎月1日、15日、24・25日には法然上人像を安置する厨子が開扉されます。

 

文化財の歴史にふれ当時の人々の心を思う

知恩院には江戸中期頃から七不思議が伝わっており、現在はそのなかの3つ「鶯(うぐいす)張りの廊下」「忘れ傘」「瓜生石」を見ることができます。歩くと鶯の鳴き声のような音がなる「鶯張りの廊下」、御影堂南東にある左甚五郎の「忘れ傘」には火災除けの願いがこめられています。石からウリが生えたとされる瓜生石の下には二条城につながる抜け道が存在するとの俗説もあります。また「白木の棺」「抜け雀」「大杓子」「三方正面真向の猫」は写真を展示しています。

厚さ約30cm、重さ約70tもある知恩院の大鐘は日本三大名鐘のひとつで、その音色は実に重々しく響きます。この鐘楼は法然上人を慕う信者の寄進により作られ、鐘の重さに堪えられる環を鋳造したのは刀匠正宗・村正兄弟と伝えられています。

知恩院に残る数々の文化財をご覧頂き、そこから当時の文化や相手を慈しむ心、懸命に良いものを作ろうとした職人の気持ちを汲み取って頂ければと思います。

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暮らしに息づく天神信仰の拠点
北野天満宮 禰宜 梶 道嗣 氏

北野天満宮 禰宜  梶 道嗣 氏
北野天満宮 禰宜
梶 道嗣 氏

身近な神として庶民に慕われた道真公

 当時、朝廷の最高機関だった太政官。そのなかで、右大臣の位までかけのぼった菅原道真公は、無実の罪で九州の大宰府へ左降され、その地で薨去されます。その後、都には天変地異が起こり、人々は道真公の怨霊に違いないと、天暦元年(947)、御所に近い北野の地に皇城鎮護の神としてその御霊をお祀りしました。道真公は学問の神として知られますが、元来は農耕の神で、正直者に福を授ける、冤罪を晴らすなどの御神徳があり、また、厄除けの御利益もあります。

 臣下から神になった道真公の信仰は篤く、御鎮座より多くの参拝がありました。「天神さん」と呼ばれる毎月25日に行なわれる縁日は、当初、道真公の御神霊に奉納していた芸能を、参拝者にも見せるようになり、それに見物客が集まると、団子やお茶を出す店ができるという具合に変遷してきたものです。その名残が現在に引き継がれ、今日では骨董や古着をはじめ、飲食を営む露店が千件以上も軒を連ねるようになりました。また、季節により取り扱う品物が変わることから、京都の風物詩ともなっています。

 

京都らしさ漂う行事が年末まで目白押し

 豊臣秀頼公造営の現在の本殿は国宝に指定されており、正面だけでなく裏にまわって見るとその素晴らしさが伝わります。また、本殿西側には豊臣秀吉公が築いた史跡の御土居があります。これは現存する御土居のなかで最も原型に近い形で保たれており、そこにはモミジも自生しています。

 11月7日から12月13日までもみじ苑を公開。11月21日から土・日・祝日と11月25日にライトアップも行います。知る人ぞ知る紅葉見物の穴場なので、広々とした苑内を静かにゆったりと散策できます。毎月25日と紅葉シーズンには北野天神縁起絵巻等を納める宝物殿を公開します。12月1日には献茶祭があり、社務所や上七軒歌舞練場等に、誰でも参加できる茶席(有料)が設けられます。

 年末の「天神さん」の縁日は「終い天神」と呼ばれ、通常より露店が増えて食料品や骨董品のほか迎春品も並び、例年10~15万人の参拝者で賑わいます。大晦日の夜には火縄授与があり、この浄火を正月の食事に使うと、その年を無病息災で過ごせるといわれています。この冬は上七軒の町並も美しい北野へぜひお越しください。

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渓谷に大伽藍(だいがらん)が連なる京都随一の紅葉の名所
東福寺 寺務長 永井慶洲 氏

東福寺 寺務長  永井慶洲 氏
東福寺 寺務長
永井慶洲 氏

京都最大の伽藍を誇る京都五山のひとつ

 25もの塔頭寺院を有し、広さは約7万坪にも及ぶ当寺は、京都最大の伽藍を誇る寺院です。その歴史は古く、鎌倉時代に摂政関白の九條道家が造営し、東大寺の「東」と興福寺の「福」の字を取って東福寺と名づけたのが始まりです。開山の聖一国師(しょういちこくし)は中国の径山萬寿寺で修行され、数多くの経典や書物を持ち帰っておられます。また茶の種や水力で茶と麺を製粉する石臼の設計図を伝えたことから麺類の祖、静岡茶の祖とも言われています。

 国宝の三門は禅宗において日本最大・最古のもので、その構造は和様、天竺様、禅宗様を組み合わせた非常にバランスの良いものとなっています。また、正面には足利四代将軍義持の筆による「玅雲閣(みょううんかく)」の扁額(へんがく)が掲げられており、大屋根の四隅にある四角い筋交いは天正大地震後に豊臣秀吉が補強に施したもので、「太閤柱」と呼ばれています。山門西側の東司(とうす)はいわゆるお手洗いで、室内には中国式の壷がズラリと並び、大勢の修行僧が一斉に利用した当時を彷彿とさせます。

 

錦秋の通天橋の絶景と八相の庭は必見

 秋は2000本の紅葉が錦を織り成し大変見事です。東福寺三名橋のひとつ通天橋からの眺めは絶景ですが、渓谷から紅葉越しに見上げる通天橋もまた、絵になります。開山堂の伝衣閣には三国伝来の布袋像を安置しており、この像が伏見人形の由来とも言われています。

 重森三玲作の方丈庭園は「八相の庭」と呼ばれ、お釈迦様の生涯における8つの重要な事柄をイメージしています。南庭は九山八海を表し、巨岩で構成された四仙島と築山による五山が配され、砂紋で8つの海を表現しています。東庭は北斗七星に見立てた石と砂紋で宇宙を、西庭はさつきと白い砂による市松模様で生命の象徴である井田(せいでん)を描いています。北庭は苔と敷石の市松模様が絵画的でモダンな印象を与えます。

 塔頭25ヶ寺では芬陀院(ふんだいん)、霊雲院、光明院が通年公開しており、芬陀院の雪舟の庭は、紅葉はわずかながらも、賑わいを避けて静かに過ごすには絶好の場所です。11月以外は重要文化財の禅堂で座禅体験もできます。20名様から受付けておりますので、ぜひお申し込みください。

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俗世を離れ幽玄の世界に心を放つ
宝泉院 住職 藤井宏全 氏

宝泉院 住職  藤井宏全 氏
宝泉院 住職
藤井宏全 氏

天台声明の修練場所だった大原

  宝泉院はかつて、勝林院の僧坊だった寺院で、江戸時代の中頃までは「宝泉坊」と呼ばれていました。勝林院は、法然上人を招き浄土教について論議した"大原問答"が行なわれた場所として名高く、江戸時代には徳川秀忠の正室お江の菩提を弔うために徳川家光が春日局に命じその本堂を再建しています。

 宝泉院の創建年代は明らかではありませんが、声明の発展に貢献した宗快法印が初代に近い時期に住職を務めたことから、平安末期から鎌倉初期の創建と考えられます。宝泉院をはじめ大原にある寺院の多くが天台宗で、比叡山の周囲にはいくつかの別所があり、大原もそのひとつでした。つまり大原は、僧侶や武家、文人が政治的俗世間から超越し、修行する、自由奔放な聖域だったのです。また、この地で良忍上人が声明を大成したことから、大原は声明の修練場所としても世に広まって行きました。

 

立ち去りがたい額縁庭園の秋

 寺を訪れた人の目にまず入るのが樹齢七百年の五葉の松。近江富士をかたどった樹形の見事さは京都でも随一です。廊下の血天井は伏見城で自刃した鳥居元忠ら徳川の忠臣達を供養するため、城の床板を勝林院の塔頭である宝泉院に運び、供養したものです。そして客殿の西には盤桓園と名づけられた庭園があります。盤桓とは行ったり来たり落ち着きのない心理状態のこと、つまりその場を離れがたいという意味です。この庭は柱と柱の空間がまるで一枚の絵のような額縁庭園としても知られており、竹林から垣間見られる大原の山里の風景を借景に見せた奥深さはまさに立ち去りがたく、自然と長時間眺めている方もおられます。拝観者には抹茶を接待しており、お茶を飲む行為を通して瞑想を体感してほしいと思います。

 秋の気配を感じる頃は訪れる人が増えますが、大原の里を満喫するなら一泊して朝早く散策するのが良いでしょう。朝は靄が山に衣をかけたように美しくかかり、その景観は和歌にも歌われるほどです。また、夕方も深い味わいがあります。山崎豊子の小説「不毛地帯」にもこの寺の夕暮れの情景が描かれています。できればこれを機に大原に連泊して鋭気を養っていただきたいと思います。

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四百年前の姿を色濃く残す、秀吉の妻ねね終焉の地
圓徳院 後藤 典生 氏

圓徳院 後藤 典生 氏
圓徳院
後藤 典生 氏

北政所ねねが晩年を過ごした寺

  豊臣秀吉の没後、その菩提を弔うため高台寺の建立を決意した北政所ねねは、慶長10(1605)年伏見城から化粧御殿と前庭を移築して、東山の地に移り住みました。圓徳院はねねが余生を送った屋敷を甥の木下利房が寛永9(1632)年に寺としたもので、現在の本堂は武士たちを迎える客間だったようです。庭も桃山時代を代表する蓬莱形式の枯山水です。ねねの化粧御殿に入室を許されることは側近と認められたことを意味するため、招き入れられた大名たちが記録に残すほど名誉なことでした。

 当寺の「三面大黒天」は秀吉の念持仏で、大黒天、毘沙門天、弁財天の三天合体の珍しい尊像です。合理的な秀吉は一度拝めば三つのご利益があると一目で気に入り、この仏像を信仰し、どんどん出世したことから皆もこぞって信仰し、出世守り本尊と称えられるようになりました。拝観の方々には三面大黒天の御分身を常時公開しています。

 

見えないものを見せる寺の庭

 伏見城化粧御殿の前庭を運び込んだ北庭はねねが住んだ頃の姿をほぼ残しています。賢庭の作ですが、後に手を加えた小堀遠州の影響も強く現れています。木々に光が当たることで光が見え、葉が揺らぐことで風が見える。寺の庭にある木は目に見えないものを見せるために植えられているのです。桜は満開の時だけが桜ではなく、紅葉は真っ赤な時だけが紅葉ではありません。日本の庭園はわれわれの心を映すものですから、いつ訪れても味わえるのです。来年400年忌を迎える長谷川等伯が客殿で一気に描いたと伝わる障壁画も、風のゆらぎや空気を見事に表現しています。

 北書院に隣接する江戸時代の茶室で抹茶の接待もしております。訪れる方は自分を磨きたいとか、京都で何かをみつけたいと思われるかも知れませんが、求めるものは自分の中にしかありません。しかし、その求め方のヒントが京都にはたくさんあります。どうぞ京都で本当に良いものに出会ってください。

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命の源、水神を祀り悠久の歴史を貴船に刻む
貴船神社 宮司 高井 和大 氏

貴船神社 宮司  高井 和大 氏
貴船神社 
宮司 高井 和大 氏

命の源である水の神を祀る古社

 貴船神社の創建年代は明らかになっていませんが、平安時代以前であることは間違いなく、また、伝説では、創建は1600年前だといわれている古社中の古社です。その伝説では第18代反正天皇の御代に難波の津(大阪湾)に黄色い船に乗った玉依姫が現れ、「船の留まる所に神様をお祀りすれば国土を潤し、庶民に福運を与えん」と告げられ、淀川、鴨川をさかのぼって水の湧き出る場所に社殿を建てたのが始まりと伝えられています。奥宮拝殿前の船形石は、玉依姫の乗って来られた船を覆い隠したものとされます。

 ご祭神の高神は闇神とも呼ばれる雨を司る水神です。水はあらゆる命の源。そのため人々は水の恵みをもたらす川上に不思議な力があると信じ、長雨が続いたときには白い毛の馬を、日照りが続いたときは黒い馬を奉って雨やみや雨乞いを祈願しました。「その数、数百に及ぶ」といわれ次第に馬の絵を描いた板を奉納するようになりました。これが現在の絵馬に変わっていき、そのため当社は絵馬とのかかわりが深い神社です。

 

和泉式部も詣でた深山幽谷の世界

 夫の浮気を思い悩んだ和泉式部が当社に詣でたところ、夫婦仲が円満に戻ったという逸話があります。このことから恋を司る神としても信仰を集め、室町時代には既に縁結びの神様として知られていたようです。そのため、御神水に浮かべると文字が浮かび上がる「水占みくじ」や願い事を書いて神前に結ぶ「結び文」は参拝客に大変人気があります。

 貴船の名の由来には玉依姫が乗っていた「黄船」や気力が生じる根源の「気生根」などいくつかの説があります。京都の中心部から車でわずか30分ほどで深山幽谷の世界が広がり、夏はカジカが美しい声で鳴きます。周りは木々に囲まれて川のせせらぎを耳にするだけで心が洗われていくようです。また森の中はスギタニルリシジミやムカシトンボなどの昆虫やキブネダイオウといった植物の宝庫。ストレスのたまる生活からしばし抜け出し、千年の昔を思い浮かべながら和泉式部が訪れた奥宮まで足を伸ばしてみるのもロマンチックなのではないでしょうか。

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花鳥風月を心に京文化を発信する
京都ブライトンホテル 取締役社長 辻 弘嗣 氏

京都ブライトンホテル 取締役社長  辻 弘嗣 氏
京都ブライトンホテル
取締役社長 辻 弘嗣 氏

深く響く「京のおもてなし」を

 私どもの京都ブライトンホテルが開業したのは昭和63年(1988)で、平成20年(2008)に20周年を迎えさせていただきました。このホテルの建設に向けて、初代社長は世界各国の一流ホテルを視察し、お客様に心からおくつろぎいただけるホテルの在り方を徹底的に探究しました。たとえば、のびやかな吹き抜け構造やブライトンタイプの広く優雅な趣の客室などに、そのこだわりが深く息づいています。立地的には京都御所の西に位置し、周辺には昔から糸桜(枝垂れ桜)の名所として名高い近衛邸跡など名所・旧跡が点在しています。また、当ホテルでは地下100mから汲み上げた「地下天然水」を全館に供給しています。千年余の京文化を育んできた悠久の水脈による、ミネラル分をバランス良く含んだ京の名水は、皆様からご好評をいただいております。

 このような環境を背景に、私どもは開業時から「京文化を発信するホテル」を目指しました。その想いは次第に実を結び、「京都ブライトンホテルに泊まって京都を楽しもう」という、お客様も増え続けています。本当にありがたいことです。また、私どもは「京都のおもてなし」を何よりも大切にするために、「京都基準」という心得・信条を胸に、お客様に歓びを感じていただけるよう心を尽くしております。

 

極上の感動をお届けする

 宿泊のお客様を対象に、京都ならではの朝を満喫していただくために始めた「京都御苑・早朝散策会」は、京都御苑をテーマに撮影を続けておられる写真家を案内人とした独自の散策会で、今では事前のお問合せも数多くいただくようになりました。同じく、早朝に古刹を訪ね、ご住職の法話を拝聴する特別企画、京の夏の風物詩である「京の川床あそび」なども京文化の発信、おもてなしの心をかたちにしたものです。

 また、京都の大学との連携も積極的に推し進めております。ホテル南側の敷地に京都大学ほかとの共同研究によって設けた「ブライトン菜園」でトマトを栽培したり、京都大学附属農場で育てられた農作物が新鮮なままホテルに届き、季節限定メニューとしてお届けするという取組みはレストランの新たな彩りとなりました。

 私どもはこれからもこの場所で、全国の方々が京都を存分に楽しんでいただけるおもてなしにこだわり続けてまいります。

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蒼苔に映える白い花 沙羅の儚さを愛でる
妙心寺塔頭・東林院 住職 西川 玄房 氏


 
 

霖雨の庭に散る理(ことわり)の花

 当院の起源は享禄4年(1531)に戦国時代の武将で室町幕府の最後の管領であった細川氏綱が父の高国公の菩提を弔うために建立した三友院です。その後、山名豊国が寺号を東林院と改名。上京区から妙心寺山内に移し、以来山名家の菩提寺として今日に到っています。本堂前の中央にある沙羅(夏椿)の古木は三百数十年前に行われた本堂修復時に植えられたと伝えられています。沙羅双樹は仏教の聖木とされ、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす...」という『平家物語』冒頭の文でも広く知られています。

 戦国武将であった山名豊国は文化への造詣が深く、連歌の第一人者として名を馳せました。その功績を偲んで、沙羅の花が咲く頃には歌会や句会が催されたと伝えられています。ちなみに、当院の玄関前には山田無文老大師の歌碑「仏さえ みまかりませし花の色 見ていま沙羅におもえ諸人」があります。これは、お釈迦様でも入滅されることを知り、自らの限りある日々を大切に生きよという意味です。

 

沙羅双樹の寺で心を洗う

 昭和52年(1977)から毎年「沙羅の花を愛でる会」を開いています。梅雨の頃に密やかに白い花を咲かせ、雨に打たれて散っていく儚い姿に、生命の尊さを感じていただければと企画したものです。以来、数多くの方々にご来山いただき、いつしか「沙羅双樹の寺」と呼ばれるようになりました。

 初日には花と香の高雅な世界を味わっていただく「花供養」(参加自由)を催します。また、夜の特別公開として住職手づくりのあかり瓦「梵燈」のもとで深遠な琵琶の音と精進料理をご賞味いただく「沙羅の夕べ」(参加限定・要予約)も行います。

 永きにわたって春秋の時を刻んでまいりました沙羅の古木は周りの環境の変化によって枯死しましたが、この種子から育てた二世の若木を平成18年(2006)の「沙羅の花を愛でる会」第30周年記念として移植し、本堂前庭は新たに「沙羅林」として生まれ変わりました。蒼苔に映える沙羅に人の世の理を見詰めていただければと思います。

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伊勢神宮に次ぐ崇敬を受ける王城鎮護の古社
賀茂御祖神社(下鴨神社) 権禰宜 東良 勝文 氏

賀茂御祖神社(下鴨神社) 権禰宜  東良 勝文
賀茂御祖神社(下鴨神社) 権禰宜
東良 勝文 氏

古代の神韻に満ちた壮大な「糺の森」

 当神社は正式には「賀茂御祖神社」と称します。平安遷都後は朝廷から王城鎮護の神として伊勢神宮に次ぐ崇敬を受け、式年遷宮などが定められました。これは神殿の清浄を保つために21年目ごとに改築を執り行うというしきたりで、今日まで受け継がれています。ただし、現在はすべての社殿が国宝や重要文化財に指定されていますので、屋根などの大修理をもって遷宮としています。次回は平成27年(2015)の予定です。

 緑深い樹林に清流のせせらぎが響く神域「糺の森」は東京ドームの約3倍という壮大な森林で、当神社の御祭神であり、神武天皇を導いた八咫烏の化身といわれる賀茂建角身命がこの地で民衆の諍いをただしたという伝説が残されており、それがその名の由来とされています。摂末社とともに全域が国指定史跡で、世界文化遺産にも登録されています。楼門の前にある相生社は縁結びの神様として知られ、また2本の木が途中から1本に結ばれた「連理の賢木」も広く知られています。

 

日本最古の典雅な祭礼「葵祭

 京の都に新緑が映える5月には葵祭(賀茂祭)が行われます。欽明天皇5年(544)に五穀豊穣を願い、下鴨神社と上賀茂神社の両神社に朝廷から勅旨を遣わしたのが起源で、平安時代には宮廷の祭礼として定着し、行列の沿道は人々で埋め尽くされたと伝えられています。ちなみに、祭儀で葵の葉を献上したことから葵祭と呼ばれるようになりました。

 神事は5月3日の流鏑馬神事で幕を上げます。公家装束の射手たちが疾走する馬上から糺の森の馬場に設けられた的を次々に射抜いていく勇壮な行事です。4日には斎王代の禊が行われます。天皇の皇女が奉仕された「賀茂斎院の制」に由来する禊の儀で、下鴨神社と上賀茂神社の両社で隔年交替にて行われます。12日には祭神の荒魂を本殿にお迎えする御蔭祭が執り行われます。百数十人にも及ぶ神幸列は日本最古のものとされ、これらの神事を経て15日に催されるのが葵祭です。都大路を行く典雅な王朝絵巻の行列は総勢五百余名、約1㎞にも達します。

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樹齢四百年の梛が静かに守る神聖な社
熊野若王子神社 宮司 伊藤 快忠 氏

東山花灯路実行委員会 会長 田中 博武 氏
東山花灯路実行委員会 会長
田中 博武 氏

都人の熊野詣の起点

 熊野若王子神社は熊野神社・新熊野神社とともに京都三熊野のひとつに数えられています。熊野参詣はいにしえより法皇・上皇から庶民まで盛んに行われました。中でも後白河法皇は三十数回も御幸を重ねるほど熊野を崇拝し、永暦元年(1160)には、都の地に紀州の那智大社に当たる熊野若王子神社を建立されました。京の人たちはこの地を起点に、裏山の滝で身を清めてから熊野詣に出立したのです。銀閣を造営した足利義政が当社にて花を愛で、宴を開いたといわれますが、応仁の乱で本殿が消失。その後、豊臣秀吉によって再建されました。

 現在、神木の梛が境内を囲むようにお社を守っています。中でも本殿に向かって右側の梛は樹齢400年と京都で一番古い梛です。梛は神事に使用する榊の原点ともいえる木で、かつては宮中の女官たちが懐に葉を入れて身を清めたといわれます。梛は災難をナギ倒すともいわれており、当社では、女官の習慣に倣って梛の葉を入れたお守りを災難よけに授与しています。また、毎朝ろうそくや線香に火を入れる際にその日の吉凶を占うカラフルなおみくじマッチが、参詣者に好評です。

 

桜越しに一望する春爛漫の京都

 東山三十六峰に位置する当社周辺は、風致地区に指定されたこともあり、より閑静な佇まいを残しています。哲学の道がひときわ華やぐのが桜の咲くころ。関雪桜のもと、そぞろ歩きを楽しむ人たちでにぎわいを見せます。4月第1日曜には哲学の道一帯で「散策の集い」が開催され、お茶の接待などがあります。当社でも「桜花祭」を行い、「散策の集い」の無事を祈願する神事の後、詩吟や琴、大正琴などの奉納演奏が行われます。

 平成10年には、裏山に110本の桜が植樹され、桜花苑として自由に散策していただいています。「散策の集い」頃に満開を迎え、濃いピンクの陽光桜が密集して咲き誇る光景は、並木とはまた違った魅力があります。苑内からは京都市内が一望でき、桜越しに眺める京の街は、春ならではの情緒です。

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風雅の灯りが彩なす幻想の京の宵‐京都・東山花灯路
東山花灯路実行委員会 会長 田中 博武 氏

東山花灯路実行委員会 会長 田中 博武 氏
東山花灯路実行委員会 会長
田中 博武 氏

毎年100万人以上が訪れる
早春の京の光の絵巻

 夜の京情緒を楽しんでもらえる新たな催事として始めたのが京都・東山花灯路です。たとえば、神戸ではルミナリエが脚光を浴び、奈良でも燈花会が催されていましたが、これに準ずるものが東山界隈にはありませんでした。そこで「何とかしなければ...」という気運が次第に高まり、1年近くの準備期間を経て平成15年(2003)に第1回京都・東山花灯路が開催されたのです。桜が咲く前の時期にも拘らず、約70万人もの人出で賑わい、永年の願いを実らせることができました。その後、早春の都の宵の風物詩として定着し、毎年100万人以上の人々が訪れ、「100万人を超えるのは祇園祭と花灯路だけ」と言われるまでになっています。この大成功を背景に、初冬には嵐山でも花灯路を行うようになりました。観光客の方々は、京都近郊はもちろん、東京をはじめとする関東からも多数お越しです。近畿圏の場合は散策後に帰宅されますが、東京・関東地域の皆さまは約半数が宿泊され、その人数は毎年増え続けています。幻想的な風情をゆっくりと味わいたいとお望みの方が多くなっているのでしょう。

 

夜の詩情を深める散策路 幽玄のライトアップ、催事も多彩

 東山花灯路の舞台は悠久の時が息づく東山の麓。北の青蓮院、円山公園から八坂神社を経て、清水寺まで続く約 4.6㎞。白壁と土塀、石畳に映える灯りと花が夜の詩情を深める散策路です。京焼・清水焼、北山杉、京銘竹、漆塗など京都の伝統工芸による露地行灯が足元をほんのりと照らし、幻想的な雰囲気を演出しています。また、円山公園の吉水の小川を灯で満たす「竹灯り・幽玄の川」や新進華道家による「現代いけばな展」、舞妓の舞などが披露される高台寺「華舞台」などイベントも多彩です。青蓮院、知恩院、八坂神社、高台寺、圓徳院、法観寺、清水寺のライトアップ・特別拝観も大変な人気ですし、同時期には清水寺青龍会・観音加持も催されます。今年の京都・東山花灯路は3月13日(金)から22日(日)まで開催(点灯:午後6時)しますので、昼間とはまた違う夜の京都を、皆さまに楽しんでいただければと思います。

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京文化が映える伝統工芸からハイテクグッズまで
堀金箔粉株式会社 代表取締役社長 堀 智行 氏

堀金箔粉株式会社 代表取締役社長 堀 智行 氏
堀金箔粉株式会社 代表取締役社長 堀 智行 氏

京の地で金箔を商い
再来年で創業300周年

 創業は江戸時代の正徳元年(1711)で、2011年で創業300周年を迎えます。伝統工芸の分野で箔や粉を多く用いるのは、仏壇、仏具、寺院、呉服、帯、陶器、漆器などです。この他にも業務用の純金箔粉、食品や美容などの用途に向けて加工した金箔・切廻し、印刷や捺染などに活用される転写箔、それから金を使ったオリジナルグッズなども取り扱っています。いずれも基本は純金箔で、1万分の1mmまで叩いて伸ばし、109mmの規格に整えます。この時に残る周囲の部分が切廻しで、これを錬り潰して微粒子状にし、乾燥させたのが金粉です。純金箔は、一般的には純度94.4%で5%の銀と微量の銅が含まれています。理由は、この比率が最も扱い易いからです。また、箔には純金箔のほかに純銀、白金、着色箔などもあります。ちなみに、切廻しなどを集めるのに蕎麦粉を用いたところから「蕎麦は金運を招く」という伝承が生まれ、大晦日に年越し蕎麦を食するようになったそうです。

 

伝統とは革新の連続
つねに新たな分野に挑む

 お客様に「なぜ、堀金さんは300年も暖簾を守ることができたのですか」と尋ねられ「それは、うちと関わるすべての方々に儲けていただいているからです」とお答えしました。金という素材はそれぞれが付加価値を創り出したときに利益が生まれ、関わった皆様に儲けていただけます。そのため、役立つ情報がおのずと集まり、新たな取り組みもできるようになります。このような商いを信用第一に考え、代々続けて今日に到っています。
 さらに、伝統とは革新の連続だと考えています。たとえば今、純金にこだわらず研究開発しているのが変色しない塗料や耐久性を追求した新製品で、新たな価値を創り出すことができれば、今後の大きな柱になると考えています。京都の文化財のデジタルアーカイブにも力を注いでおり、さらに、金を用いた楽しい新提案も次々に行っています。伝統工芸品だけでなく、住宅の内装や、ギター、パソコンなどにも金箔を使った加工をさせて頂き、どれも好評いただきました。ほかにも金を使ったさまざまな楽しいオリジナルグッズをそろえております。京都に来られた際は、ぜひお気軽にお立ち寄りください。

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京料理とともに磨かれてきた伏見の銘酒
伏見酒造組合理事・(株)山本本家取締役社長山本 源兵衞氏

山本源兵衞氏
伏見酒造組合理事 (株)山本本家取締役社長山本 源兵衞氏

東海道線が敷設された明治以降
全国に伏見の酒が広まった

 伏見の酒づくりの伝統が花開いたのは約400年前の安土桃山時代からで、その後、豊臣秀吉の伏見城築城によって伏見は繁栄し、需要が高まっていきました。江戸時代には水陸交通の要の地となったことで、地場での消費はそれなりにありました。明治時代に入り、東海道線がこの地に敷設されたため、日本酒の最大の市場である東京に直接送り込むことができるようになり、伏見の酒は全国的に動き出しました。明治天皇が東京に移られたために、京都は一時人口が減少するなど疲弊しました。この復興施策として練兵場が設けられ、徴兵制度で全国各地から人々が集まってきたことも伏見の酒が広まる一因となりました。このような時代背景のなかで約130年前に酒造仲間が集まり、伏見酒造組合が誕生しました。現在、24の蔵元が参画しています。

 

食中酒でもある日本酒
料理とのハーモニーが大切

 酒づくりの要は「水・米・技」です。京都盆地の地下は琵琶湖の5分の4ほどもある巨大な水瓶状になっており、そのため天然の良水が尽きません。伏見は「伏水」とも書かれたほど上質の伏流水に恵まれ、「伏見の七名水」をはじめとする名井が点在しており、中でも、千数百年前に湧き出たと伝えられる御香宮神社の清泉は「日本名水百選」にも選ばれています。水質はカリウムやカルシウムなどをほどよく含んだ中硬度で、「きめ細かく、まろやかな風味」が特徴です。米については組合の働きかけによって、酒米「祝」の栽培が再開されました。これは昭和8年に京都で生まれた低タンパク質で酒造適性が極めて高い良質の品種ですが、稲の背が高いために倒れやすく、収穫量が少ないことなどが原因で昭和49年以降、姿を消していました。しかし、昭和63年に試験栽培が開始され、平成4年に「祝」の酒が製品化されることになりました。ワインもそうですが、日本酒もまた食中酒と考えています。つまり、料理とのハーモニーが何よりも大切であり、伏見の酒は京料理とともに長い歳月の中で磨かれてきました。旬の美味を愛でながら、ゆっくりと味わっていただくのが私どものお酒です。日本料理の原点は京料理ですから、これに合う日本酒は京都・伏見の酒であると思っています。東京をはじめとする全国各地の皆様にも、そのような視点でお酒をお選びいただければと願っています。

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京の冬の風物詩「まねき看板」に精魂を注ぐ
書家 川勝 清歩氏

書家 川勝 清歩氏
書家 川勝 清歩氏

歌舞伎発祥の地で伝統を受け継ぐ
吉例顔見世興行「まねき看板」

 江戸時代の初め頃(元和年間1615-1623)、四条河原の付近には公許された7つの櫓(劇場)があったと伝えられています。その中で明治を迎えたのは四条大橋の東詰めの南北にあった2座のみで、明治26年には北側の芝居も廃座となり、南座だけが残りました。今日、京都の冬の風物詩として名高い吉例顔見世興行は歌舞伎の年中行事の一つです。江戸時代、劇場と俳優は11月から翌年の10月までの1年間で専属契約を結んでおり、そのため、劇場は毎年11月に新たな俳優の顔触れによる座組で公演をしました。顔見世とは、この興行を指し、1年の内でもっとも重要な興行であったため『歌舞伎の正月』とも呼ばれています。
 昔は、劇場の前に、文字や絵で飾り立てた看板を上げることが主な宣伝の方法でした。この看板の一つが「まねき看板」(通称まねき)で、南座はこの伝統を受け継ぎ、顔見世では「まねき」を上げています。看板上部に庵形をつけたものに、勘亭流で俳優の名前をしるし、その上に俳優の紋を飾ります。これに用いる勘亭流の書体は、安永8年(1779)に江戸堺町の書道指南であった岡崎屋勘六が中村座のために考案したのが始まりとされ、勘六の号が勘亭であったところから勘亭流という流派が生まれました。勘亭流の文字は、劇場が大入りになるようにという思いを込め、筆太で、隙間を空けず、内へ丸く曲げるように書いていきます。

 

師匠の名を汚すことのないように
一筆一筆に心を尽くして仕上げる

 私がこの世界に入ったのは15歳のとき、戦後間もない昭和23年頃でした。
師匠(竹田耕清氏)が「まねき看板」を書かれるのを、横からじっと見、その筆遣いを目に焼きつけて、家に帰ってから繰り返し練習するという日々が続きました。師匠が亡くなられた後は私の兄弟子が仕事を受け継がれたのですが、それから二十数年経って体調を崩され、それを機に、平成8年(1996)、私が「まねき看板」を引き継ぐことになり、師匠の名前の一字をいただき号を清歩と定め、川勝清歩と名乗っています。
  「まねき看板」の素材は檜です。長さは約180cm、幅は約30cm、厚さは約3cm。枚数はその年によって異なりますが、50枚から60枚といったところです。仕事は檜板の準備から始まります。まず、昨年使用した板の表面を削り、次に墨を用意します。これは2リットル前後必要になるため直径40cmほどのすり鉢ですらなければならない、かなり大変な作業です。「まねき看板」は下書きなしの一発勝負で、失敗は許されません。1枚を書くのに15分から20分ほどかかり、すべてを書き上げるのに延べ10日間ほど要します。この時期は風邪をひくことも許されませんし、事故にあうことも許されません。まさに真剣勝負の毎日ですが、京都の冬の顔を任せてもらえるのはうれしい限りです。
 現在、私は75歳です。優れた後継者を見つけること、それが私の受けた師匠の恩に報いることになると思っているのですが、それがなかなか困難です。頭を悩ませていますが、なによりも、師匠や兄弟子の名前を汚すことのないよう、一筆一筆に精魂を注いで「まねき看板」を仕上げています。

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四季を通じて鈴虫の音が聞こえる祈願の寺
鈴虫寺(妙徳山・華厳寺)住職 桂 紹源 氏

鈴虫寺(妙徳山・華厳寺)住職 桂 紹源 氏
鈴虫寺(妙徳山・華厳寺)
住職 桂 紹源 氏

小鳥の囀(さえず)りも、鈴虫の音(ね)も
すべては仏様の声

 鈴虫寺の正式な名称は妙徳山・華厳寺です。江戸中期の享保8年(1723)に当時衰退していた華厳宗を再興するため、鳳潭(ほうたん)上人(しょうにん)が現在の地に開かれました。鳳潭上人は仏教他派の学僧とも親交が深く、当時では珍しい、印度を中心とした世界地図を制作するなど学僧として活躍されていました。現在は臨済宗の禅寺ですが、四季を通して鈴虫が鳴いているので、いつしか鈴虫寺と呼ばれるようになりました。
 8代目の住職である台巌和尚(たいがんおしょう)が、ある秋の夜、坐禅を組んでいるときでした。はかない寿命の鈴虫が懸命に鳴いている姿をご覧になり、「春の朝の小鳥の囀りも、秋の夕べの鈴虫の音も、すべては仏様の声...」と開眼され、「一年を通じて皆さんにも鈴虫の音を聞いてもらうことはできないか」と思い立ったのが鈴虫寺の始まりです。今から約60年前のことです。鈴虫は梅雨の頃に生まれて、夏に成虫になり、秋に鳴いて寿命を終えます。成虫となってその音を聞くことができるのは一月半(ひとつきはん)ほどです。60年前といえば、今のように冷房も暖房もありません。夏には鈴虫の入った瓶を地中に入れて冷やしたり、冬には火鉢で温めてみたりと、失敗に失敗を重ねながら28年かけてようやく皆様に一年中聞いていただけるようになりました。なんの知識も情報もないところから飼育を始め、現在では約8,000匹もの鈴虫が鳴いています。しかし、相手は生きものです。こうすれば必ず上手く育つという決まった方法はありません。60年経った今も毎日が試行錯誤の繰り返しです。

 

全国から多くの祈願者が
わらじ履きの幸福地蔵菩薩様のもとに

 鈴虫寺にご参拝になられる方の多くが、山門脇にお奉りしている幸福地蔵菩薩様にお願いを掛けに来られます。普通、仏様は皆裸足ですが、こちらのお地蔵様は草鞋を履いておられます。これは、一度でもしっかりと手を合わせてお願いをすれば、その願いを叶えるために、皆様の家まで一軒一軒お越しくださるからなのです。若い方は「恋人ができますように」とお願いされていることが多いようです。子授けのお願い、病気平癒、家族のことや商売のことなど、多くの方がそれぞれに夢や悩みを抱えてお地蔵様にお参りされます。守っていただきたいのは、欲を出さないことです。願い事は一つだけ。一度に幾つものお願いをしないことです。一つ叶えばまた一つと、一歩一歩進んでいくことが大事なのです。
 最近は、お寺に行っても住職様の話を聞いたり、相談をしたりする機会が随分と減ってきたと聞いています。鈴虫寺では単なる観光の場ではなく信仰の場として寺院本来の姿に立ち戻り、ご参拝の皆様に、簡素ですが、茶と菓子をお出ししてお話をしています。日常を離れた寺院という場所で、鈴虫の音を聞きながら心を落ち着けて、ご自身を見つめ直す一つの機会となればと願っております。

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京都再興の熱き思いを結実させた時代祭
平安神宮 禰宜 本多和夫氏

平安神宮 禰宜 本多和夫氏
平安神宮 禰宜
本多和夫氏

千年余の都でしかできない祭礼
京の美の極みが映える時代行列を

 明治維新で明治天皇が東京へ移られた後、京都は一時、人口が約3分の2まで減少するなど大変疲弊しました。これを持ち直すために、平安遷都1100年を記念した一大事業として、桓武天皇をご祭神とする平安神宮が創建されました。明治28年(1895)のことです。そして、この京都再興の熱い思いを末永く継承して行くという目的で、同じ年に時代祭が誕生しました。他府県では真似のできない祭礼として、伝統工芸の心・技の極みが映える時代行列を再現することになったのです。10月22日に「平安遷都1100年記念大祭」が平安神宮で催されたのち、第1回時代祭は25日に行われました。行列には幕末維新の戦場を駆けた山国隊も参加しています。以後、行列の数は増えていきましたが、今日のような姿になったのは、第2次世界大戦を経て7年ぶりに復活した昭和25年(1950)からです。平安時代・中世・江戸時代の女人行列が彩りを添えることになり、五花街が担当することになりました。また、昨年からは室町時代列に「室町幕府執政列」、「室町洛中風俗列」が新たに加わっています。参加人数は現在、総勢約2,000人に達し、行列の長さは約2㎞にもおよびます。時代祭は「動く壮麗な歴史絵巻」なのです。



12,000点にもおよぶ衣裳、調度品、祭具
すべて時代考証に基づくほんもの

 22日の巡行に先立ち15日に宣状授与祭が執り行われます。その年の主な参役に選ばれた平安講社員(市民)が神前で行列の無事を祈願し、宮司より参役の宣状(任命書)を授与される祭事です。21日の前日祭を経て、当日は午前6時頃から、平安神宮や各学区の体育館などで着付係の手によって着付けが行われ、髪も地毛で結い上げます。その後、全員が京都御所に集合し、正午に出発します。翌日の23日に後日祭が行われ、蔵に衣裳、調度品、祭具を仕舞います。これらは、合わせて約12,000点を数えます。いずれも、緻密な時代考証に基づくかけがえのない品々です。鎧兜をはじめ貨幣価値には換算できないものが数多くありますが、ある試算では約50億円を超えると言われています。時を経ると傷む衣裳などは、染織も刺繍も綿密な時代考証に則って一点ずつ作り直しています。「京都でしかできないものを...」という往時の思いは、絶えることなく今日に受け継がれているのです。10年前には京都市・パリ市友情都市盟約締結40周年を記念して、「京都時代祭行列パリ巡行」も行いました。平成10年(1998)7月25日のことです。京都市民のボランティアにパリ在住の日本人、フランスの方々も加わり、行列人数は約550人、行列の長さは約500m。カルーゼル凱旋門からチュイルリー公園、コンコルド広場、マドレーヌ寺院、オペラ座、ルーブル宮まで約3.5㎞を周回する巡行で、20万人を越える観客の心を魅了し、日仏両国のマスコミでも大きく取り上げられました。美を極めたほんものに国境はないのです。

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現代の匠の至高の技が交響する京仏壇
株式会社若林佛具製作所 会長 若林卯兵衛氏

株式会社若林佛具製作所 会長 若林卯兵衛氏氏
株式会社若林佛具製作所 会長
若林卯兵衛氏

仏壇はご本尊をお祀りし
日々自らの心を見つめなおす場所

  京仏具の歴史は平安京の時代-最澄、空海が仏教を広めた頃に始まったと伝えられています。11世紀初めに寄木造の名仏師であった定朝<じょうちょう>が「七条仏所」を創設し、この地に仏師、鍛冶、金銀細工師などの職人が集うようになり、京都独自の様式が生み出されてゆきました。仏壇が庶民の家庭に普及するのは、江戸時代に定められた宗門改<あらため>制度以降です。それまでは庄屋や富豪の邸だけに仏壇が祀られ、法事のときなどはその前に家族、後方に親戚が座し、小作人は庭から拝んでいました。そのため、横からも拝むことができるように三方開きの仏壇が造られたのです。
 仏壇は寺と同じようにご本尊をお祀りし、自らの心を見つめなおす場所です。今日、多くの方がご先祖様を供養するためのものと考えておられますが、それは本来の姿ではありません。たとえば、上杉謙信は毘沙門天を崇拝して毘沙門堂を建立します。これが仏壇のあるべきかたちなのです。崇め敬う対象を安置する壇、それが仏壇です。また、私たちが子どもだった頃は、日々の暮らしの中で自然を畏れ、すべてに感謝する心を教えてもらいました。このような日本の道徳や美徳が、戦後の米国主導の教育施策や功利を最優先する社会環境のなかで途絶えてしまいました。現在の日本に蔓延する心の闇はここに起因していると考えています。自らが信じる確かな拠り所がなければ、誰もが空しく彷徨するしかありません。だからこそ、「朝<あした>に礼拝<らいはい>、夕べに感謝」の心を大切にしていただきたいのです。



かけがえのない匠の心技の数々を
次代に結実させるのが私の役目

 仏壇には「金仏壇」、「唐木仏壇」、「新型仏壇」があります。京仏壇の多くは「金仏壇」で、全体に漆塗りが施され、内部に金箔が貼ってあるのが特徴です。その仕様は本山の内陣を模しているため宗派によって異なります。「唐木仏壇」は高級輸入材の黒檀、紫檀、花梨を用いた、木目の美しさが際立つ仏壇です。「新型仏壇」は現代生活に調和した新感覚のデザイン性を追求した仏壇で、数多くのモダンな新作が創り出されています。ちなみに、京仏壇、京仏具は経済産業大臣指定の伝統工芸品に指定されています。
 京仏壇を仕上げる工程はきわめて多岐に分業化されています。本体をつくる「木地」から「屋根」、「木彫刻」、「漆塗」、漆塗りの表面を磨き上げる「蝋色<ろいろ>塗<ぬり>」、「箔押」、「蒔絵」、「彩色」、「餝<かざり>金具」を経て、最終の工程である「総合組立」に至ります。いずれも異なる工房での作業であり、長い経験に裏づけられた高度な技法、絶妙の呼吸を要する仕事です。また、釘をほとんど用いないのも京仏具の特徴です。錆を嫌い、塗りを浮かせたり、木を傷めたりしないための配慮です。たとえば、平成17年に完成した京都迎賓館には現代の京都の至高の技が集結していますが、京仏壇もこれと同じく京の匠の技を結実させ極めた名品です。そのすべてが、京都の各本山の内陣造につぎ込まれた珠玉の心技を映すものだからです。このかけがえのない伝統の技の数々を、次代に伝え高めていくことが、五代目若林卯兵衛を襲名させていただいた私の、なによりの責務だと考えています。

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NEWENTRIES
小町の寺で隠れた歴史に触れる
隨心院 執事長 亀谷英央 氏
清泉いづる伏見の産土神で歴史を体感する山
御香宮神社 宮司 三木(そうぎ) 善則 氏
法然上人の教えを今に伝える浄土宗の総本山
総本山知恩院 文化財保存局長 前田昌信 師
暮らしに息づく天神信仰の拠点
北野天満宮 禰宜 梶 道嗣 氏
渓谷に大伽藍(だいがらん)が連なる京都随一の紅葉の名所
東福寺 寺務長 永井慶洲 氏
俗世を離れ幽玄の世界に心を放つ
宝泉院 住職 藤井宏全 氏
四百年前の姿を色濃く残す、秀吉の妻ねね終焉の地
圓徳院 後藤 典生 氏
命の源、水神を祀り悠久の歴史を貴船に刻む
貴船神社 宮司 高井 和大 氏
花鳥風月を心に京文化を発信する
京都ブライトンホテル 取締役社長 辻 弘嗣 氏
蒼苔に映える白い花 沙羅の儚さを愛でる
妙心寺塔頭・東林院 住職 西川 玄房 氏
伊勢神宮に次ぐ崇敬を受ける王城鎮護の古社
賀茂御祖神社(下鴨神社) 権禰宜 東良 勝文 氏
樹齢四百年の梛が静かに守る神聖な社
熊野若王子神社 宮司 伊藤 快忠 氏
風雅の灯りが彩なす幻想の京の宵‐京都・東山花灯路
東山花灯路実行委員会 会長 田中 博武 氏
京文化が映える伝統工芸からハイテクグッズまで
堀金箔粉株式会社 代表取締役社長 堀 智行 氏
京料理とともに磨かれてきた伏見の銘酒
伏見酒造組合理事・(株)山本本家取締役社長山本 源兵衞氏
京の冬の風物詩「まねき看板」に精魂を注ぐ
書家 川勝 清歩氏
四季を通じて鈴虫の音が聞こえる祈願の寺
鈴虫寺(妙徳山・華厳寺)住職 桂 紹源 氏
京都再興の熱き思いを結実させた時代祭
平安神宮 禰宜 本多和夫氏
現代の匠の至高の技が交響する京仏壇
株式会社若林佛具製作所 会長 若林卯兵衛氏